言葉の問題と言う事(8)
「理解の世界=D」の中に有る事で、そのあるモノが、言葉になる。
Dを囲む、外側である生活の世界にあるモノが、Dの世界に入った事で、始めて此処での言葉と成るなら、Dに入る以前の、生活世界にあるモノ=Fが、「何で有るか」と言う私達の問いは、FがDに入る事が無ければ成立しないモノなのです。
入ってしまえばDであり、入る前はFであると言う言い方としては、あくまでも内部の世界にあるモノが言葉になるので有って、入らない限り言葉には成らないのです。とすると、Fを言葉で取りあげる事はあり得ず、FがDと成っている事で、言葉になっているのだから、Dを言葉として取りあげている事は、本質としては、Fの転化したモノとしてのDと言う捉え方をしているから、その本質では、あくまでもFなのだと言う思いがあるからなのです。
これを鏡像を例にして考える。
私達が鏡に写っているモノを目で見ている時、見えているのは鏡のそこにあるモノで、そのモノを見ながら,原物の像であると言う判断が成立している。今目の前に見ているモノは、鏡と言う物体を見ていると同時に見えているモノを頭の中で像と判断している。
当然客観的構造として、原物が有り、その像が鏡の上に成立しているので有って、私達が鏡を見ている時、頭の中に成立しているのは、目の前にあると見ているモノが像で、鏡の前にいる者が、原物であると言う「原物と像」と言う関係思考なのです。
鏡の其処に見えているモノが原物と違って、像であると言う時、原物に反射した光が鏡に作り出している光学的像であって、そこにある構図は、原物を見ている事が、像を見るのとは違っていると思ってしまうが、原物でも其処に反射した光が
鏡の自己像の場合、直接見る事が出来ない自分の顔に光が反射する。その顔に直接反射する光が空間を伝わり、鏡にさらに反射した光を、私達の目が受け止めている。他者の顔の場合でも、彼の顔に反射した光が、私の目に入る事で、私が彼の顔を見ていると言う事になる。
彼の顔に反射した光は、彼と私の間の空間を伝わり、彼から一定の距離にいる私の目に入る事で、私は彼の顔をみている事になる。顔に反射してくる光は、反射する事で顔の出来事を携え、空間を伝わり、私の目の網膜に像として、反応させるのです。
顔に反射する光は、反射する事で顔の出来事を携えてーー特定の波長として進んでくるーー空間に拡散していくのです。空調を拡散していく時にも、顔の情報を持ち続けているのであり、その空間の途中に鏡があると、情報を持つ光が、反射する事で、方向が、入射の角度と同じ角度で反射していくのです。私達の目は、鏡に反射した光を受け入れた時、その反射の場所に、最初の反射する事で持ってきた顔の情報を、反射像として、受け入れるのです。つまり、鏡に写っている姿をみるのです。
光によって見ている事としては同一だが、他者の場合には、空間を直進してくるが、自分の顔の場合、あくまでも途中の鏡に反射して来た光が目に入ってくるのです。直進する光と反射する光は、携える情報としては同一だが、反射する鏡の状態によって、反射率が落ちて、直接見る事と違ってくる。これは鏡だけの問題ではなく、私の前にいる他者を見ている時、周りがかすんで、ボーとしか見えなくなる事で、他者の顔がよく見えなくなる事とおなじです。つまり、物体に反射してくる光は、途中の直進率や鏡の反射率として、条件が確定できる事で、光によって見る事は、反射体の条件が確定できるからこそ、鏡をみても、空虚なモノを見ているのではなく、直接見る事と変わりがないのです。
私達が目で見るとは、生きた物体に対して、光の反射がもたらす情報を受け入れる事であって、自分の顔を直接みたいと言う想いは、人の顔を自分の目で見ているのに、自分の顔にはそれが出来ないのは、なにか可笑しいと言う想いなのです。
しかし私達動物が、目で見るとは、あくまでも反射する光の、網膜への作用であって、物体から反射した光が空中を、余計なモノに邪魔されずに直進して、そのまま目に入るか、途中の鏡で100パーセントで反射して来て目に入るかなのです。
研ぎ澄まされた鏡は、透明な空間を光が伝導する事と同じであり、ただ進行する方向が変わる事で、見る位置に変化が出ると言う事なのです。
ただ、直接見る事は、生きている彼の姿と言う存在に対して、一つの側面である光の反射による知覚なのに対して、鏡の場合、その一つの光の側面のみが、知覚されているのです。

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Dを囲む、外側である生活の世界にあるモノが、Dの世界に入った事で、始めて此処での言葉と成るなら、Dに入る以前の、生活世界にあるモノ=Fが、「何で有るか」と言う私達の問いは、FがDに入る事が無ければ成立しないモノなのです。
入ってしまえばDであり、入る前はFであると言う言い方としては、あくまでも内部の世界にあるモノが言葉になるので有って、入らない限り言葉には成らないのです。とすると、Fを言葉で取りあげる事はあり得ず、FがDと成っている事で、言葉になっているのだから、Dを言葉として取りあげている事は、本質としては、Fの転化したモノとしてのDと言う捉え方をしているから、その本質では、あくまでもFなのだと言う思いがあるからなのです。
これを鏡像を例にして考える。
私達が鏡に写っているモノを目で見ている時、見えているのは鏡のそこにあるモノで、そのモノを見ながら,原物の像であると言う判断が成立している。今目の前に見ているモノは、鏡と言う物体を見ていると同時に見えているモノを頭の中で像と判断している。
当然客観的構造として、原物が有り、その像が鏡の上に成立しているので有って、私達が鏡を見ている時、頭の中に成立しているのは、目の前にあると見ているモノが像で、鏡の前にいる者が、原物であると言う「原物と像」と言う関係思考なのです。
鏡の其処に見えているモノが原物と違って、像であると言う時、原物に反射した光が鏡に作り出している光学的像であって、そこにある構図は、原物を見ている事が、像を見るのとは違っていると思ってしまうが、原物でも其処に反射した光が
鏡の自己像の場合、直接見る事が出来ない自分の顔に光が反射する。その顔に直接反射する光が空間を伝わり、鏡にさらに反射した光を、私達の目が受け止めている。他者の顔の場合でも、彼の顔に反射した光が、私の目に入る事で、私が彼の顔を見ていると言う事になる。
彼の顔に反射した光は、彼と私の間の空間を伝わり、彼から一定の距離にいる私の目に入る事で、私は彼の顔をみている事になる。顔に反射してくる光は、反射する事で顔の出来事を携え、空間を伝わり、私の目の網膜に像として、反応させるのです。
顔に反射する光は、反射する事で顔の出来事を携えてーー特定の波長として進んでくるーー空間に拡散していくのです。空調を拡散していく時にも、顔の情報を持ち続けているのであり、その空間の途中に鏡があると、情報を持つ光が、反射する事で、方向が、入射の角度と同じ角度で反射していくのです。私達の目は、鏡に反射した光を受け入れた時、その反射の場所に、最初の反射する事で持ってきた顔の情報を、反射像として、受け入れるのです。つまり、鏡に写っている姿をみるのです。
光によって見ている事としては同一だが、他者の場合には、空間を直進してくるが、自分の顔の場合、あくまでも途中の鏡に反射して来た光が目に入ってくるのです。直進する光と反射する光は、携える情報としては同一だが、反射する鏡の状態によって、反射率が落ちて、直接見る事と違ってくる。これは鏡だけの問題ではなく、私の前にいる他者を見ている時、周りがかすんで、ボーとしか見えなくなる事で、他者の顔がよく見えなくなる事とおなじです。つまり、物体に反射してくる光は、途中の直進率や鏡の反射率として、条件が確定できる事で、光によって見る事は、反射体の条件が確定できるからこそ、鏡をみても、空虚なモノを見ているのではなく、直接見る事と変わりがないのです。
私達が目で見るとは、生きた物体に対して、光の反射がもたらす情報を受け入れる事であって、自分の顔を直接みたいと言う想いは、人の顔を自分の目で見ているのに、自分の顔にはそれが出来ないのは、なにか可笑しいと言う想いなのです。
しかし私達動物が、目で見るとは、あくまでも反射する光の、網膜への作用であって、物体から反射した光が空中を、余計なモノに邪魔されずに直進して、そのまま目に入るか、途中の鏡で100パーセントで反射して来て目に入るかなのです。
研ぎ澄まされた鏡は、透明な空間を光が伝導する事と同じであり、ただ進行する方向が変わる事で、見る位置に変化が出ると言う事なのです。
ただ、直接見る事は、生きている彼の姿と言う存在に対して、一つの側面である光の反射による知覚なのに対して、鏡の場合、その一つの光の側面のみが、知覚されているのです。
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