言葉の問題と言う事(4)
私が身体に感じている事を、「お腹が空いている」と言葉にする時、ただ感じている事だけなら、そのまま、食べ物を食べると言う身体活動を実行させる意志の核とし成立していれば良いだけです。お腹が空いていると言う感覚が有る事に対して、食べると言う身体活動の実行とは、食べ物を手に取り、口に運び、口の中で咀嚼し、飲み込むと言う一連の身体運動が成立している事なのです。その身体活動の実現の入り口が空腹感であり、その空腹感に促され、運動意志が、身体の細部の活動を組み立てていくのです。
この空腹感によって動き出す意志が、食べる事を実行するのであり、空腹感と実現行為の間が直結しているのが、動物であり、人間は、少しの齟齬があるのです。
動物は感じれば、ただ食べるだけで完了している。それに対して、人間はあえて言葉にする時、動物の生き物としての在り方に対して、言葉を掛け合う人間の在り方が、其処にはあると言う事に成るのです。
少し前に戻して考える事にする。
私が身体に感じている「それ」に対して、「空腹」と言う言葉を与える。この時言葉を与えると「それ=空腹」であると短絡されてしまう。感じている「それ」を言葉に表すのに、感覚である「それ」が、身体の腹と言う場所に関わりがあり、腹に食べ物を入れる事で、腹が満たされ、新たな「それ=満腹」が生まれる。
前者を「空腹」、後者を「満腹」と言葉に表すと、今感じている「それ」について、言葉にするのは、「それ」の感じられている腹の出来事として、食べ物が空っぽと満たされている事を、「それ」の表現としたのです。
つまり、身体の腹の所で感じている感覚知である「それ」については、腹の状態の形態を言葉にする事で、感じている「それ」を、表現したと言う事に成ったのです。今の私は、自分の身体状体をひしひしと感じているが、その感じは、自分には全く明らかで有るのに、他者に伝えようとすると、「それ」は、ただ人々が自分の事として感じているだけであって、「それ」は、伝えるモノで無く、それでもあえて伝え様とすると、「それ」を感じている身体の状態で表す以外に無いのです。
それが「空腹、満腹」と言う言葉なのです。食べ物が胃に満たされているか、空っぽかは、ただ身体の生理的出来事で有るのに、その在り方が、そこに感じている「それ」の表現で有る時、空腹と言う言葉は、特定の感覚知を表している事になるのです。だから一日の仕事が終わった夕方の私の身体の状態への、私が感じてい事を、「お腹が空いている」と言う言葉に表しているのです。
そして「お腹が空いている」と言う言葉を発する時、どう見ても現に感じているモノを、全く正確に表していると思っていて、感じている事は、その通りの事だと結論しているのです。
つまり、言葉を使う方向にあるものは、ただ身体に感じているモノが、お腹の特定の状態と一体であると考えられているから、、「空腹」と言う言葉で、完結することに成るのです。
それに対して、お腹に感じているモノは、身体の現状を示しているだけであって、そう感じている今、想像としての満腹をイメージして、ご飯を食べ、食べる最中に「満腹」を感じて、食べる事を完了するのです。
つまり、「お腹が空いている」事は、現状の知覚であるのだが、食べる事で満腹に成る経験知に支えられ、実際に食べる事が実行される。確かに空腹を感じている事と、食べる事は、時間的繋がりが有るにしても、空腹感は、満腹のイメージを作ったりする種で有っても、食べる事の中心では無く、あくまでも「満腹のイメージ」に促されて、食べる事が現実化するのです。例えば空腹感が有っても、いざ食べようとすると、食べ物を吐き出してしまう、拒食症は、食欲が無いのではなく、逆に食欲があるから、食べる方向に向かおうとしていているのに、いざ食べようとして口に食べ物を入れると、食べ物が喉を通らない状態になってしまう。これは食べる事でうまれる「満腹感」への心的拒否であって、と言う事は私達の日常の食べる事は、「満腹感」のイメージに促されて、食べ始め、食べている最中に、現実の満腹感を知覚し始めたから、食べる事を終了したのです。

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この空腹感によって動き出す意志が、食べる事を実行するのであり、空腹感と実現行為の間が直結しているのが、動物であり、人間は、少しの齟齬があるのです。
動物は感じれば、ただ食べるだけで完了している。それに対して、人間はあえて言葉にする時、動物の生き物としての在り方に対して、言葉を掛け合う人間の在り方が、其処にはあると言う事に成るのです。
少し前に戻して考える事にする。
私が身体に感じている「それ」に対して、「空腹」と言う言葉を与える。この時言葉を与えると「それ=空腹」であると短絡されてしまう。感じている「それ」を言葉に表すのに、感覚である「それ」が、身体の腹と言う場所に関わりがあり、腹に食べ物を入れる事で、腹が満たされ、新たな「それ=満腹」が生まれる。
前者を「空腹」、後者を「満腹」と言葉に表すと、今感じている「それ」について、言葉にするのは、「それ」の感じられている腹の出来事として、食べ物が空っぽと満たされている事を、「それ」の表現としたのです。
つまり、身体の腹の所で感じている感覚知である「それ」については、腹の状態の形態を言葉にする事で、感じている「それ」を、表現したと言う事に成ったのです。今の私は、自分の身体状体をひしひしと感じているが、その感じは、自分には全く明らかで有るのに、他者に伝えようとすると、「それ」は、ただ人々が自分の事として感じているだけであって、「それ」は、伝えるモノで無く、それでもあえて伝え様とすると、「それ」を感じている身体の状態で表す以外に無いのです。
それが「空腹、満腹」と言う言葉なのです。食べ物が胃に満たされているか、空っぽかは、ただ身体の生理的出来事で有るのに、その在り方が、そこに感じている「それ」の表現で有る時、空腹と言う言葉は、特定の感覚知を表している事になるのです。だから一日の仕事が終わった夕方の私の身体の状態への、私が感じてい事を、「お腹が空いている」と言う言葉に表しているのです。
そして「お腹が空いている」と言う言葉を発する時、どう見ても現に感じているモノを、全く正確に表していると思っていて、感じている事は、その通りの事だと結論しているのです。
つまり、言葉を使う方向にあるものは、ただ身体に感じているモノが、お腹の特定の状態と一体であると考えられているから、、「空腹」と言う言葉で、完結することに成るのです。
それに対して、お腹に感じているモノは、身体の現状を示しているだけであって、そう感じている今、想像としての満腹をイメージして、ご飯を食べ、食べる最中に「満腹」を感じて、食べる事を完了するのです。
つまり、「お腹が空いている」事は、現状の知覚であるのだが、食べる事で満腹に成る経験知に支えられ、実際に食べる事が実行される。確かに空腹を感じている事と、食べる事は、時間的繋がりが有るにしても、空腹感は、満腹のイメージを作ったりする種で有っても、食べる事の中心では無く、あくまでも「満腹のイメージ」に促されて、食べる事が現実化するのです。例えば空腹感が有っても、いざ食べようとすると、食べ物を吐き出してしまう、拒食症は、食欲が無いのではなく、逆に食欲があるから、食べる方向に向かおうとしていているのに、いざ食べようとして口に食べ物を入れると、食べ物が喉を通らない状態になってしまう。これは食べる事でうまれる「満腹感」への心的拒否であって、と言う事は私達の日常の食べる事は、「満腹感」のイメージに促されて、食べ始め、食べている最中に、現実の満腹感を知覚し始めたから、食べる事を終了したのです。
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