日々雑感(16)
現物に反射した光は、レンズとしての眼球から入ってスクリーンとしての網膜に、鏡と同じ像を結ぶのです。しかし結んだ像は、鏡の場合ガラスの熱の影響を与えるが、そこで鏡が変化する事は無いが、網膜の場合には像が結んでいる場所の細胞に、化学的・電気的変化が生じ、それが視神経を伝導して脳細胞に到達して、脳細胞が働く。この一連の過程を、現物であるリンゴを見ていると云う事に成る。脳の細胞の活動は、光の反射と云う外部の動きが、網膜細胞を動作させるので有って、動作以降は、細胞固有の活動として脳細胞まで連動する事に成る。
この脳細胞の活動によって起きるモノを、私達はイメージとか表象とか規定するので有って、目の前のリンゴに見えているモノが、光による刺激で視細胞から脳細胞の活動に転化された時、視覚の対象として見えているリンゴに対して、イメージとして生まれたモノが、表象された「赤」と云う事に成るのです。
つまり、リンゴを見ている時、そこに見えているモノとは、視細胞への刺激であって、その刺激で生まれた視細胞の変化を、脳細胞が「赤」と判断されるのです。
ただし、脳細胞の「赤」と云う判断と云っても、刺激以前に脳細胞に「赤」が有って、刺激で生まれた変化を、最初からある「赤」と云う色で色づけたと云う事ではない。
外界からの光の反射が物体の表面の特性によって、光の周波数として規定されていて、各周波数によって刺激による視細胞の変化が、脳細胞で周波数事の脳細胞の反応領域の違いとして集合化されると、新たな刺激が入って来た時、パターン化されたモノに組み入れられる事を、脳の働きとして判断と規定するのです。
このパターンがあたかも「赤」と云う色であると規定すると、光の周波数の違いによって視細胞の働く領域が違っている事が、あたかも「赤色」で有るかの様に短絡されて仕舞うのです。
光の周波数の違いが視細胞の働く領域の違いとして有っても、脳は視細胞の領域の違いが生み出している変化のそれぞれを、視覚の対象に向け直す事で、リンゴの表面を、特定の色として判断するのです。
光の刺激で生まれた変化が細胞の領域であるにしても、その細胞の変化に則って、視線をリンゴに向け続ける事で、初めてリンゴの表面の特性を色として認知するのです。
光がいつも外界から入ってきて、その光の刺激を受ける事になり、その刺激をうけて脳細胞が活動すると云う、外界からの一方向の働きが有る事で済むのではなく、その脳細胞の活動を受けて視覚がリンゴを知覚する事で、脳細胞の働きによる、リンゴからの光を、赤として
判断するのです。
つまり、リンゴに反射した光は、リンゴを離れて視細胞まで到達するのであって、あたかも反射してしまってリンゴを離れた光が、赤として目に入ってくるかの様に考えがちだが、しかしあくまでも絶えず反射し続けている事で、光はリンゴを赤として見せ続けているのです。
この捉え方は、リンゴの表面に反射するとは、太陽の照らす光が有って、その光がリンゴの表面に反射して、空中を伝導して、目の中に入ってくると云う過程として述べているが、これは太陽が照っている限り、太陽からでる光はーー継続している限りーーリンゴの表面から反射し続けていて、その反射し続ける光が、絶えず目の中に入ってくると云う事なのです。確かに光は網膜に作用する事で、脳細胞に働きを与えるが、この過程が太陽が照っているかぎり継続しているのであり、この反射の継続としてリンゴに視線を向けている事に成るのです。当然目を反らせば、見ていたモノは視界から消え、別のモノが視線に入ってくる事に成る。
絶えずリンゴの表面から反射するとは、私達の視線が絶えずリンゴに向けられている事で、向けられている視線に対して光が入ってくる事なのです。この視線を向けると云う事が、脳の中で、外界からの刺激によるパターンを、意志の土台にして、私達は判断と云う脳活動として成立させたのです。外界からの光が反射する物体の特性により、特定の波長の光として反射してくる事だが、絶えず反射する特定の波長の光は、太陽が照っている限り、継続しているのだが、それはリンゴに視線を向けている事で有り、その向けると云う意志行為が、光の刺激で脳内にできたパターンを踏み台にして成立している事なのです。
外界からの光の侵入は、視覚を説明する客観的な方法で有るが、しかしこれではリンゴを赤と判断する脳の働きを説明できないのです。
一方的な光の侵入とは、カメラのスイッチが押されると、一瞬シャッターが開き、外界に反射してきた光が侵入して、波長の違い感光材を刺激すると、感光材の上の塗布された薬品が変化する事で、像が浮かび上がるのです。
カメラの感光材の変化に対して、人間の脳は、一方向からの結果としての感光材の変化形態を、対象を見つめる意志の指標として、双方向として構成するのです。
この意志の指標としての脳内のパターンこそ、私達がイメージとか表象とか呼んでいるモノの正体なのです。
さらに云えば、このイメージや表象が言語として表されることで、そのイメージは概念と云う種類のレベルに転化されることに成ったのです。

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この脳細胞の活動によって起きるモノを、私達はイメージとか表象とか規定するので有って、目の前のリンゴに見えているモノが、光による刺激で視細胞から脳細胞の活動に転化された時、視覚の対象として見えているリンゴに対して、イメージとして生まれたモノが、表象された「赤」と云う事に成るのです。
つまり、リンゴを見ている時、そこに見えているモノとは、視細胞への刺激であって、その刺激で生まれた視細胞の変化を、脳細胞が「赤」と判断されるのです。
ただし、脳細胞の「赤」と云う判断と云っても、刺激以前に脳細胞に「赤」が有って、刺激で生まれた変化を、最初からある「赤」と云う色で色づけたと云う事ではない。
外界からの光の反射が物体の表面の特性によって、光の周波数として規定されていて、各周波数によって刺激による視細胞の変化が、脳細胞で周波数事の脳細胞の反応領域の違いとして集合化されると、新たな刺激が入って来た時、パターン化されたモノに組み入れられる事を、脳の働きとして判断と規定するのです。
このパターンがあたかも「赤」と云う色であると規定すると、光の周波数の違いによって視細胞の働く領域が違っている事が、あたかも「赤色」で有るかの様に短絡されて仕舞うのです。
光の周波数の違いが視細胞の働く領域の違いとして有っても、脳は視細胞の領域の違いが生み出している変化のそれぞれを、視覚の対象に向け直す事で、リンゴの表面を、特定の色として判断するのです。
光の刺激で生まれた変化が細胞の領域であるにしても、その細胞の変化に則って、視線をリンゴに向け続ける事で、初めてリンゴの表面の特性を色として認知するのです。
光がいつも外界から入ってきて、その光の刺激を受ける事になり、その刺激をうけて脳細胞が活動すると云う、外界からの一方向の働きが有る事で済むのではなく、その脳細胞の活動を受けて視覚がリンゴを知覚する事で、脳細胞の働きによる、リンゴからの光を、赤として
判断するのです。
つまり、リンゴに反射した光は、リンゴを離れて視細胞まで到達するのであって、あたかも反射してしまってリンゴを離れた光が、赤として目に入ってくるかの様に考えがちだが、しかしあくまでも絶えず反射し続けている事で、光はリンゴを赤として見せ続けているのです。
この捉え方は、リンゴの表面に反射するとは、太陽の照らす光が有って、その光がリンゴの表面に反射して、空中を伝導して、目の中に入ってくると云う過程として述べているが、これは太陽が照っている限り、太陽からでる光はーー継続している限りーーリンゴの表面から反射し続けていて、その反射し続ける光が、絶えず目の中に入ってくると云う事なのです。確かに光は網膜に作用する事で、脳細胞に働きを与えるが、この過程が太陽が照っているかぎり継続しているのであり、この反射の継続としてリンゴに視線を向けている事に成るのです。当然目を反らせば、見ていたモノは視界から消え、別のモノが視線に入ってくる事に成る。
絶えずリンゴの表面から反射するとは、私達の視線が絶えずリンゴに向けられている事で、向けられている視線に対して光が入ってくる事なのです。この視線を向けると云う事が、脳の中で、外界からの刺激によるパターンを、意志の土台にして、私達は判断と云う脳活動として成立させたのです。外界からの光が反射する物体の特性により、特定の波長の光として反射してくる事だが、絶えず反射する特定の波長の光は、太陽が照っている限り、継続しているのだが、それはリンゴに視線を向けている事で有り、その向けると云う意志行為が、光の刺激で脳内にできたパターンを踏み台にして成立している事なのです。
外界からの光の侵入は、視覚を説明する客観的な方法で有るが、しかしこれではリンゴを赤と判断する脳の働きを説明できないのです。
一方的な光の侵入とは、カメラのスイッチが押されると、一瞬シャッターが開き、外界に反射してきた光が侵入して、波長の違い感光材を刺激すると、感光材の上の塗布された薬品が変化する事で、像が浮かび上がるのです。
カメラの感光材の変化に対して、人間の脳は、一方向からの結果としての感光材の変化形態を、対象を見つめる意志の指標として、双方向として構成するのです。
この意志の指標としての脳内のパターンこそ、私達がイメージとか表象とか呼んでいるモノの正体なのです。
さらに云えば、このイメージや表象が言語として表されることで、そのイメージは概念と云う種類のレベルに転化されることに成ったのです。
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