言葉について考える事とは(1)

<言葉について考える>と言う事について考える。つまり言語学ーー言葉とは何かと考えるーーとは何かを考える。日常の人々の相互のコミュニケーションと呼ばれる、意思伝達としての言葉は、日々の中で、思った事が伝達し、安心し、思った事が伝わらずに、相互不信に陥ると言う場面をもつのです。この説明は、私達の日常の場面についての経験を語っています。伝達がうまく行くと、仕事がはかどり、うまく行かなければ、その人には会いたいと思わなくなるのです。その様な場面の中に言葉が、生まれていると言う事なのです。言葉の経験は、言葉が人々が自分の思いや、共同体の思いを他者との相互性として成立させていると言う事です。自分の中に生まれている意思は、自分の思いと、他者に伝達しようとする意思とともに両立して生まれている。
 人々が当たり前にする言葉の経験は、言葉についての一般論を形成するが、さらに言葉の働きとか有用性を開示するのです。例えば<百聞は一見にしかず>と言う言葉は、ある出来事についての経験を他者に伝達する時、言葉による百回の説明より、一回の視知覚経験で、すんでしまうと言う事です。この場合ある出来事の経験に対して、経験者の認知度により、何の経験をしたのかも分からない人もいれば、深い経験知をえる人もいる。百回の言葉による説明は、けっしてある出来事の経験ではないし、私が経験から得られた知を、他者に伝達しようとする意思の現れなのです。一見の場合にはその出来事の経験と言う事なのです。彼の家までの道筋を言葉で説明するよりも、一枚の地図に描いてもらった方が分かりやすいと言う時、言葉での説明でも分かるのだが、ただ<難易度>の点で、地図の方が早いと言う事なのです。本当は言葉での説明には、言葉の特性があるし、地図の説明には、地図の特性があるのだと言う事でいいのです。その特性によって、使い分けると言う事が、私達の日常の経験知であると言う事です。

言語学は、その言語の特性を構造として解明する事であり、日常の言葉は、その特性を利用していると言う事なのです。特性の利用にあって、あとは特性の解明で得た知識が有用されるかどうかです。それは今までは便利な伝達だと思っていただけのものが、その解明の視点からみると、それも言葉であることが分ったのです。

<そもそも、コトバについて考えようとすれば、どうしてもコトバを使わなければなりません。つまり、コトバと言う対象の性質を分析しようとするとき、その分析の道具として同じ対象であるコトバを使わなければなりません。それは、木材を切るのに、木製ののこぎりを使うようなもので、おなじ堅さであるから、とても切れるものではないのです>町田健・たのしい言語学

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック