日々話したり、書いたりしている言葉を一つの構図で考える。
「頭の中・認知=A」ーー「りんご=言葉の集まりとしてのC」ーー「言葉が指示するモノ=B」
と言う構図を考える。
まず、[リンゴ]とは、Cグループに属する一員で、[りんご = 言葉]と言いたくなる。最初から言葉ではなく、ただCグループの一員だと言う事が始まりなのです。
そのC一員である[りんご]が、Bのグループの一員として、実物であるモノに対して、名指す事で、Cには、[りんご]と言う名前が付くことに成る。声帯の震動、インクの跡としてのCは、ただその通りだが、実物であるBの一員との間に[名指す]と言う関係が生じた時、初めて言葉としての[りんご]となるのです。
Cの一員で有るだけなのなら、けっして言葉としての[りんご]に成らず、私達が発音したり、インクの痕跡を残しても、ただ声帯の震動の真似でしかない。其処から実物との間に[名指す]事に成れば、Appleは、実物との間に名前と言う関係を持つ事で、言葉としての、名前としての、Appleとなるのです。
そこで実物に対して、[りんご][Apple]が名前であるとは、いかなる事なのか問う事ができるのです。
[りんご]と言う声帯の震動は、話し言葉であり、白紙の上のインクの跡では、書き言葉となる。現代では、ディスプレーの光の輝きと言う事になる。白紙の上のインクの痕跡は、特定の線の痕跡なのだが、同時に声帯の震動としての音声でもある。今日は、インクの痕跡としての書き言葉が、私達の目の前に広がっていても、同時に声帯の震動としての話し言葉が伴っていて、独り言を言いながら、文字言葉をきしているのです。
さて、[Apple]と記しながら、そのインクの跡が、ある実物と名指すという関係を形成しているなら、[Apple]と言う痕跡は、[Apple]と名指して、実物をよりどりしててにいれるのです。
Cの一員、言葉としての[リンゴ]は、Bのグループの一員に属して居る実物に対して[リンゴ]と言う言葉を名前として、使うのです。[リンゴ]と言う言葉は、たんにCの一員に過ぎないだけなのだが、実物に対して、名前として働く事で、言葉の一員であるCであることが、実物に、名付けると言う関係を形成するのです。
[りんご]「Apple」とは、Cグループの一員として、言葉なのだが、同時にCの一員でありながら、実物であるBを、名指す事で、ことばとなるのです。
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posted by はとがの思考者 at 07:04|
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